しりとりリレー2005 夢野久作『少女地獄』(角川文庫)

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 毎度毎度遅れるこのコーナーです。それも最初は5月1日アップという期日で「本業の原稿の締め切りがあるので、頼むから3日にして!」と言っておいて3日は廃人状態で今に至ります。今回は連休があるからまだ余裕あると思ってたら逆だった。いつもよりさらに余裕がない。じゃあ30日にイベント行ってんなって話か。

http://d.hatena.ne.jp/harumachi-an/20050429

 橋立様から「し」というお題を聞かされて、ゴールデンウィーク前の縛りつけられた進行のさなか、ネットで検索したり本屋に行って見たりすると……「し」っていっぱいあるのな。「し」が回ってきたといっても吾妻ひでお失踪日記』はもちろん選べませんが。すでに選ばれたし。

 いくつか候補を挙げてみた。

ナンシー関『信仰の現場〜すっとこどっこいにヨロシク』(角川文庫)
テレビ評論でおなじみのナンシー関では珍しい取材もの……なんていう切り口の書評はネットでもいっぱい見てるよな。だけど新しい切り口はできそうにないし、でボツ。

山本周五郎『小説 日本婦道記』(新潮文庫)
しりとりリレーにはあんまり出てこない時代ものということで再読すると……うわあこりゃベタ。あまりにベタ。設定がベタならオチもベタ。しりとりリレー参加者をはじめとしてネット界の百戦錬磨の読書家の方々に訴えかけるにはきつい題材。で、またボツ。

んで、青空文庫を検索してみて、やっと決まったのが今回の本です。

 夢野久作という名前を知らなくても角川文庫版『ドグラ・マグラ』のグロくもエロい表紙を見た人は多いかもしれない。この本も『ドグラ・マグラ』と同じく米倉斉加年が担当。本書は表題作を含む短編集。(併録に『童貞』『けむりを吐かぬ煙突』『女坑主』)

 表題作はさらに3つの短編に分かれる。『何んでも無い』は、昭和8年、姫草ユリ子という病的虚言症の美少女について、臼杵医師の出会いから自殺までの独白。『殺人リレー』は昭和初期、バスの女車掌であった月川ツヤ子の非業な死が書簡形式で語られる。『火星の女』は、やはり昭和初期なのか、県立高等学校から黒焦げの少女の死体が発見され、殺人放火事件として捜査が進められる中、校長の心神喪失(文中にははっきりと「発狂」と書いてある。時代が時代だから)や教諭の縊死など、新たなスキャンダルが続く。事件の真相は何なのか、を一連の新聞記事と告白の手紙という独特な形式で綴られる。
 3編に一環して流れるのは男と女の哀しみ、男の無様さ、女の周到で濃密な愛。

 そればかりじゃない。なおその上にモウ一つ。これは私の職業意識とでも言おうか。私が彼女を見た時に、第一に眼に付いたのは彼女の鼻梁(はなすじ)であった。
 彼女は決して美人という顔立ではなかった。眼鼻立はドチラかと言えば十人並程度で、色も相当に白かったが、背丈が普通よりも低く五尺チョットぐらいであったろう。同時にその丸い顔の中心に当る小鼻が如何にも低くて、眼と鼻の間の遠い感じをあらわしていたが、それだけに彼女が人の好い、無邪気な性格に見えていた事は争われない。
 私はそうした彼女の顔立をタッタ一目見た瞬間に、彼女の小鼻に隆鼻術をやって見たくなったのであった。これくらいのパラフィンをあそこに注射すれば、これくらいの鼻にはなる。彼女の小鼻は鼻骨と密着していない、きわめて手術のし易いタチの小鼻であると思った。こうした一種の職業意識から来た愚かな魅惑が、彼女を雇い入れる決心をした私の心理の底に動いていた事も否定出来ない事実であった。

 上記は『何んでも無い』の一節。姫草ユリ子を雇い入れた直後に臼杵医師は彼女に整形手術を施す。「美少女に触媒作用を追加して輝きを増加させる」というのは谷崎潤一郎の作品やら90年代のプロデューサーブームやらに散見されるが、女性本人の凄みを小説世界の独白調で感じさせるのは谷崎にはないところ。これは夢野久作における昭和初期の探偵小説(推理小説に非ず)の構造も関係しているのかも。

 ところで、私はこの小説を途中まで青空文庫で読みましたが、夢野久作のあの、カタカナ交じりな大衆紙の文体を横書きで読むという行為が大変苦痛であることがわかりました。夢野久作に横書きは似合わない。