ナンシー関が遺したもの

http://d.hatena.ne.jp/nittagoro/20050525#p1

角川文庫『何様のつもり』の「常識という中の非常識」の一節。

 思い出して見れば、生まれ故郷の青森で中学に入学した頃から、「これは自分のうちでしかやってない事なのか、それともみんなの家でもしている事なのか?」を考えるようになった気がする。高校卒業後上京してからはこの二つに日本全国規模の常識という選択肢が加わった。
 だからといって私が他人の目ばかりを気にする人間だと思われるのは心外だ。そうゆう事ではないのである。私はただ、常識と非常識両方のパターンを知りたいだけなのだ。それは、多くを知っていれば知っている程、常識と非常識の両方を笑えるからである。

太字は私がつけたもの。

もういっちょ。

 小学校で版画ばかりやってたのと、わたしが消しゴム版画家になったこととは、実はあんまり関係ないのですが、みなさんの「当たり前」と思い込んでいることの中に、「全然当たり前じゃない」ことが混ざっているかもしれません。

問題。この文の出典はどこからでしょう。実は、角川文庫『何をいまさら』に収録された「3年の学習読者みんなへのメッセージ」です。だからこの章だけ全部ルビがふってある。消しゴム版画も、ナンシー関本人が「よろしくねー」と言ってる自画像だし。すべてに渡って気色悪い。ちなみに太字の部分は原文のままです。いったいどういうシチュエーションでこの仕事が来たのだろう。まあそれはいいとして。

 大月隆寛との対談では「偏差値教育って具体的にどこの何が悪いの?」なんて話題もあったりしていたが、彼女が基本的に題材にしていたのは、テレビと芸能人が中心だった。もちろんそれ以外の話題に対しても独特の見解を出していたので、個人的のはそういうのをもっと読みたかったと思うのだけど。
 彼女の実家はガラス屋さんで、弟さんが稼業を継ぎ、妹さんは普通のOLで、一家そろってごく普通の家庭で、言わば小市民に位置する。それこそ芸能人の人によくある「親族に非常識な言動があったり不幸な要素があった」という家庭ではない。
 そのような環境でなぜ彼女のようなパーソナリティが発酵してきたのか、心理学者でもない私にはわからない。ただし「小市民である個人が何か言う」というスタイルの一助を担っているという気はしますね。そこで「常識と非常識の〜」といった自らにのスタイルをきちんと言えるか、ただ無自覚に自己の恣意をぶちまけているかの違いだと思います。今後のテレビ評(だけではないですが)でスタイルを作れてこそ、おもしろいことを言える人となると思うのですが、ネットやそれこそmixiのような仲間内に発することに埋没する環境が増えると、そのスタイルは磨かれてこない気がします。