あともうちょい

 いや、原稿が。まだ明日に提出しなければならんのが残ってるが。
 このような状況下でうっかり見てしまったぜ、笹野みちる日記。

http://www.obu.to/~sasano/

 前回の「モー娘。って女子校的」の続き。熱いというかなんというか。

それで、そのデビュー戦が終わった翌日、2004年1月25日。今度は横浜アリーナで、とあるコンサートを見ました。いや〜、人のライブ見るっつーのは本当に勉強になるねぇ。何を見たかっちゅーと、モー娘。の、“なっち卒業コンサート”、です。。。ひょんなことからチケットただで入手出来たもんでね......ただで見れるんやったら行こかな、と(笑)
 こないだの水洗便(注:日記)にもちろっと書いたけど、今頃になって私は若干モー娘。に興味を持っていて......なんかさ〜、モー娘。の本質は、私は「妄娘。」ではないかと理解していて(笑)、ま、つまり、彼女たちの人気の本質は、見かけのカワイらしさとかセクシーさなどという属性ではなく、「当人達同士の豊かな関係妄想を働かせる余地」によって成立しているユニットだと思うのですよ。それを私は「秘教的女子校文化」だのなんだの言うておったわけですが、実際この目で見て、ホントーにそれをまざまざと痛感したな〜。。。オンナの子同士の関係ってのは、状況さえ整えば、なんて美しくも健気に醸成されるのだろう.....みたいな妄想をね......やっぱ抱くわけよね(笑)。以下、私がコンサートを見てどのような感想(そう!感想っっ!!(笑))を抱いたかを書き殴ってみよう。そこから、私の「女子校文化礼賛論」が、より浮き彫りになってくる予定。(笑)

 ・・・・まず痛烈に思ったことはさ、卒業だのなんだのって、つまり所詮はオトナの都合でいいようにクビにしたり、新入りを入れたり、ひとりでやらせたり.....ってなことを繰り返して上手にお商売してるユニットなわけじゃないですか、モー娘。っつーのはさ。まさに、世が世なら、色街の花魁芸者のお商売と構造が一緒なわけですよね。「あんたの磨いてる芸は、所詮ドロドロした欲望に吸い取られていくためだけの悲しい芸ですやん」、と言われちゃうようなもんを、日々磨いてるわけですよね。

 だけどね、たぶん色街のオンナ達の間でもそれは存在したと思うんだけど、小ずるい雇い主の方針で、渦巻く欲望のために芸を磨き、日々働かされてる現象面とは全く別に、当の本人達---ただただ一生懸命毎日を勤め上げていくことしか出来ないオンナノコ達----の間には、ものすご〜〜〜〜〜い清い、尊くも堅固な絆があったんじゃないかと思うの。(中略)彼女達は自らの芸を、なんのために磨き、どこに捧げているのかというと、きっとその、堅固に閉じた互いの結びつきに向けてだけ、ただその神聖な内側へと己を投じることによってのみ、精神の純血が守られているのではなかろうか、と、ふと思ったわけですよ。毎日がそこへの「聖餐式」なのかもしれないな、と。.....つまり、モー娘。という集団は、外部からは計り知れない独自の内的深度を獲得している一種の聖家族であり、現実の矛盾や醜悪さ悲惨さから自らを救いあげるための、聖なる霊的共同体の様相を帯びているのではなかろうか、と。そして、なんだかんだ言ってそこにひきつけられてくるオタ達も、本質的にはうっすらとその「聖性」に引きつけられているのではなかろうか、と。だからこそ、そこからの“卒業”という物語は、美しくも聖なる場所からの追放の物語、俗界へと帰らねばならない何よりも悲しい弔いの物語になるのではなかろうか、と。。。。
 そんなことを思いながらなっちの卒業コンサートを見てたの。メンバーがひとりひとり、なっちと対峙して、万感の思いで見つめ合い、泣きながらまるで永遠の別れの言葉のようなものを交わすわけ。ほとんど、あの瞬間は観客のことなどどうでもよくなってたんじゃないかなぁ。演出を完全に乗り越えちゃってるカンジなわけよ。そして、抱き合いながら泣き崩れて耳元で互いに言葉を交わす瞬間にはマイクがOFFになっているの。そこで語られている言葉は、けっしてオモテに出ることのない、内的言語の数々なのではなかろうか、と......ンなこと思って見てたら、涙が出て出てもう〜〜大変でねぇ〜(;;)。(中略)・・・とまぁ、そんなわけで「清いもの」を見れた感動を綴ってみました(笑)。筋肉の限りをふりしぼってウオ〜ウオ〜叫びながらブンブン腕を振り回してた横のオトコの子が、最後の最後で、うずくまって「えーんえーん」て泣いてたのもかわいかったな〜(爆)。
まあ、そんなカンジ。
なんか、心が洗われたのよ。そういうのに触れて。
・・・モー娘。目指すわけじゃないけど、私もがんばろーっと(笑)。

 長い引用だ。